part3(2004.2.22 記)


さて、ザンギを作る事になった私は一番上の姉フランチェスカと郊外のスーパーに買い物に行った。フランチェスカの運転は熱く、道中ひやひやした。鶏肉と醤油と酒を買おうと思っていた。
鶏肉は日本と変わらない値段であったが、やはり醤油は飛び上がる程高い値段であった。こんな事になるなら家から持ってくれば良かったとフランチェスカに言いたかったが、長くなるのでやめて、「高い」とだけ言った。


酒は売っていなかったので、断念し、買い物は終了したとフランチェスカに伝えると、「明日、寿司作って」と言い出した。
何を言い出すのか、私は驚き、作れないと何度も言って、スーパーで押し問答を繰り返したが、結局負けて、材料を買って帰る羽目になった。ザンギでひいひい言ってる場合ではなくなってきた。寿司なんて。
家に帰るとママが海苔を買って来たとはしゃいでいた。なんだ、明日寿司を作るというのは周知の事実だったのだ。私一人知らず、というか多分聞き取れなくて、こんな事になっていたのだ。


ザンギはみんな「うまい」とは言っていたものの、あまり好みではなかったようだ。ピアッツァの賄いで「今日はザンギだ」なんて言うと、みんな泣いて喜ぶ勢いだが。次の日の寿司には痛く感動してるのが、伝わってきた。
ということはやはり昨日のザンギはいまいちだったのだ。







夜、仕事が終わると毎日フランチェスカが「何処行く?!」と聞いてきた。彼女は夜遊びがさかんらしい。ママが嘆いていた。
一緒に遊びに行ったそこはディスコであった。クラブという感覚でもない、どっちかと言えばディスコである。フランチェスカはフリーパスの券みたいな物を持っていた。さすがママの言う通りである。<BR>週末のディスコはすごい人で、歩くのも苦労するのだが、フランチェスカは行き交う人ほとんどが友達みたいな感じであった。彼女はいったい何者なのか。
私はその光景に圧倒され、ただ酒を飲んでいた。


とにかくフランチェスカは色々な所へ連れて行ってくれた。映画にビンゴに買い物にと。毎日が驚きと興奮だった。
最後の夕食の日、またもや私はつたないイタリア語で、本当にお世話になったアルガッロのみんなに手紙を読んだ。
仕事を手伝わさせてもらい、ご飯を食べさせてもらい、泊る所まで用意してもらい、色々連れて行ってもらい、本当に感謝していますいう旨を伝えた。

普段ろくに話せない私が、辞書を引っ張って書いた手紙であるから、みんな驚いていた。いつもは小さい声でしか話さないパパが、初めて聞くようなでかい声で「ブラーバ!ブラーバ」と言ってくれたのが、とても嬉しかった。


帰る時、フランチェスカが乗り継がなくていい駅まで車で送ってくれた。私より細くて小さいのに、私のスーツケースを持ってくれるのだ。
そして電車が来ると、彼女は泣き出した。まさか私と別れるので泣くなんて。私は心の底から彼女に感謝した。言葉には出来なかったが。
私がイタリアに旅立つ時のピアッツァの面々は、うるさいババアが居なくなるので心底嬉しそうな顔で見送ってくれたもんだが。


そして私はフィレンツェへ向かい帰路についた。
早く帰りたいと思った日もあったが、やはり帰るとなると寂しいものである。この旅では料理以外にたくさんの事を学んだような気がする。
初めて会う私にたくさんの人が良くしてくれ、気づかってくれた。日本での私はそれが出来ているのだろうか。不安が過る。今後気をつけよう。みんなに私の感謝の気持ちは伝わっただろうか。

言葉が足りないだけにこれも不安が過る。この場で言うだけではとっても足りないが、この場を借りて出会ったみんなに心から感謝してると言いたい。

そしてまた会う日を楽しみにしてると。

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